趣味 to the graveyard。

昔好きだったあの子の横顔なんて、とっくの昔に忘れちまったんだ。

先日、カメラを止めるな、を見ました。

自分が劇場に足を運んだのは、ワイドショーで不穏な話題が騒がれ始める少し前のことだった。しかしそんなことはどうでもよいのだ。作品は額縁の中身以上のもので語られる必要はないし、そこに外界の出来事を持ち込むのは騙りでしかない。たとえベッキーがゲス不倫をしていようとも、ベッキーはかわいいのだ。むしろ不倫をしているベッキーの方がよりそそられるところもある気がする。そういう話はいいってか。

 

そんなこんなでカメラを止めるな、端的に言ってとてもよかった。

 

映画の中身がどうこうは見れば劇場に足を運べばわかる話なので特にここで触れることはしない。チケットを買え、劇場へ行け、整った環境で映像体験をしろ。そうすれば演者たちも、制作にかかわった人たちも、あとは原案者だか原作者だか監督だかしらんけど、そこらへんの某たちもうれしいだろう。もちろん安倍内閣も嬉しいよ。

 

 

 

①観劇のスタイルはこうあるべき

しばしば映画の番宣のなかに海外、主にアメリカの劇場で観客がヒートアップしてる様子が映るものがある。自分の認識ではあれがアメリカでの観劇のスタイルであり、最も理想に近い劇場のあるべき形だ。一方日本人は、いや自分は日本以外の国で映画をみたことなどないのだが、日本人は粛々として映画鑑賞をするのが好きなようだ。頻繁に劇場に足を運べど、喜劇であれ悲劇であれ、おおよそ常に劇場は、徹頭徹尾静まり返っている。お前らは機械か。何のために高い金を払ってまで劇場で映画鑑賞をしているのだ。面白いシーンで笑いを押し殺し、悲しいシーンで涙と嗚咽をおさえて、感情を殺してまでどうして作品を鑑賞しているのだ。常日頃そう思いながらも、やはりNoといえない日本人である自分もその流れの中にいる。時折感情をあらわにするものが現れれば、横目にいぶかしげな顔をしてしまう。まったくもって面白みのない観衆とその一人。

さてこの映画においては劇場は少しだけ顔色を変える。大阪のこてこての芸人のごとく、天丼や鉄板をふんだんに盛り込んだコントとも受け取れるこの作風に、普段感情を殺している民衆も意図せずして感情の吐露を誘発される。自然と生まれた笑い声は次第に連鎖し、気づけば観衆はご飯時に食卓を取り囲んでバラエティを見るときの、お茶の間スタイルへと変化を余儀なくされる。仕掛ける作品、やられる観衆。この掛け合いこそが本来あるべき劇場の姿なのだと、しみじみ思った。

 

②裏方に憧れてしまう

歳を重ねるにつれて、表舞台よりも縁の下に目が移っていく。例えばバンドを見に行ったとき、機材スペースやリハの場面、バミりの確認なんてところを関心深く見てしまう。大きな作品を仕上げるためには、それが出来上がる過程の中で幾多の尽力が折り重なっている。映画のエンドロールに並ぶ人名の数々、愛おしい。

作品を仕上がりを決めるものは製作費でもなくネームバリューでもなく、ただただにマンパワーなんだ、そう思わせる作品に胸が熱くなった。もっとはやくこういった作品群の価値に気づくことができていれば、確実に制作の道を目指していたのに。くっそー。